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福岡地方裁判所 昭和62年(ワ)2352号 判決

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  本訴請求の趣旨

(主位的請求)

1 被告らは原告に対し、別紙物件目録記載の家屋を明渡せ。

2 被告らは各自原告に対し昭和四六年九月一日から右明渡し済みに至るまで一か月金一万五〇〇〇円の割合による金員を支払え。

3 訴訟費用は被告らの負担とする。

4 仮執行宣言

(予備的請求)

1 被告らは原告から金五〇〇万円の提供を受けるのと引換えに、原告に対し別紙物件目録記載の家屋を明渡せ。

2 訴訟費用は被告らの負担とする。

3 仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

(主位的請求-契約解除)

1  原告は訴外江下徳次(以下「徳次」という。)に対し、昭和四五年九月九日、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を以下の約定の下に貸渡した。

(一) 賃料月額一万五〇〇〇円

(二) 賃料は翌月分を前月末日までに支払う。

(三) 期間一年

2  徳次は昭和五六年九月一三日死亡した。

3  被告らはいずれも徳次死亡当時同人の子であり、他に徳次の相続人はいない。

4  原告は被告らに対し、それぞれ次に掲げる日に、昭和四六年九月一日から昭和六二年三月三一日までの家賃合計金二八〇万五〇〇〇円を同月二〇日までに支払うよう催告した。

(一) 被告江下雅陽に対し、昭和六二年三月五日

(二) 同横山智招、同江下陽子、同江下雅美に対し、同月六日

(三) 同江下雄勝、同坂田(当時江下)双葉(以下「双葉」という。)に対し、同月七日

5  原告は被告らに対し、右催告と同時に期限までに家賃の支払なきときは本件建物の賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

6  昭和六二年三月二〇日は経過した。

よって、原告は被告らに対し、契約解除による原状回復請求権に基づき本件建物の明渡し並びに1項の契約に基づき昭和四六年九月一日から昭和六二年三月二〇日までの月一万五〇〇〇円の割合による賃料及び明渡し遅滞による損害賠償請求権に基づき契約解除の翌日である昭和六二年三月二一日から明渡し済みに至るまで月一万五〇〇〇円の割合による賃料相当損害金の支払を求める。

(予備的請求-正当事由に基づく解約)

1  主位的請求1項ないし3項に同じ。

2  原告は被告らに対し、主位的請求4項(一)ないし(三)に掲げる日に本件建物の賃貸借契約の解約を申入れた。

3  右解約申入れには以下のとおり正当事由がある。

(一) 本件建物の老朽化

本件建物は、築後約八〇年を経過して木造家屋としての耐用年数を越えている。このため根太、床板の一部は腐朽し建物全体がゆがみ、床板が約一〇センチメートル下がっている箇所もあり、廊下の一部も波を打ちたわむ等しており、修理のため釘を打っても効かない状態であり、壁の一部は崩落し、ひび割れは無数にある。また、屋根瓦もずれ、雨水の漏水も著しいため、一部はビニールシートを蔽って雨漏れを防いでいるが、天井板、壁にも雨水は浸潤し、土壁は湿気を含んで指で圧迫するとへこむ状態で一面にしみが出来ている。更に、本件建物の配電は碍子による古い配線のままであり、漏電による火災の危険性も極めて高い状態になっている。

本件建物は長屋造りの一部であったが他の部分は既に老朽化のため取壊されている。

(二) 原告の本件建物自己使用の必要性

(1) 原告の本件建物取得の目的

原告が本件建物を取得した目的は、原告及びその家族が昭和四五年当時から現在まで居住する福岡市中央区赤坂三丁目三八五番地の居宅(床面積三一・四〇平方メートル)が狭小で、原告夫婦と子四名の合計六名が居住するには手狭になっていたため、近い将来、本件建物を取壊しの上、自宅を建設するというにあった。

(2) 原告の建替え建物使用の必要性

原告は現在、妻及び二女と右自宅に同居しているが、その他の三人の子供との同居を望んでいる。しかし右自宅は四畳半・六畳の二室しかないため家財の置き場所にも困る状態であり、長女と三女は昭和五一年からは近くのアパートの二階(六畳・四畳半)に別居して住んでいる。長男も家業を継いで結婚した後は、原告ら夫婦と同居することを願っているが、現在右のとおり、自宅やアパートには寝るスペースもないため、同居することができない。

以上のとおり、原告の本件建物建替え及び建替え建物使用の必要性は昭和四五年当時から存在し、現在著しいものとなっている。

(三) 信頼関係の破壊

(1) 徳次は、本件建物賃貸借契約を原告と締結するに際し、原告の本件建物についての右必要性を十分に了解し、原告の本件建物明渡請求に対しては、誠意をもって話し合いに応じる旨約束した。そのため、原告と徳次との右契約において、賃料は徳次と訴外立場川との間の賃料一月一万五〇〇〇円のまま据置くことにした。

(2) 原告は徳次に対し、昭和四六年七月ころ右約束に基づき本件建物明渡しの話合いを求め、立退料の申し出をしたところ、同人は「人が住んでいる家を買うのが気にいらない。」「絶対出ない。」と右話合いを拒絶した。原告はその後本件建物明渡しの調停を申立した(福岡簡易裁判所昭和四六年(ユ)第一八七号調停事件)が同年一一月一五日、右調停は不調に終わった。

(3) 無断増改築等

徳次は原告に無断で昭和五二年四月二九日ころ、本件建物玄関付近に増改築を加え、日時は不明であるが本件建物北東部分に風呂場も増築した。

双葉は、原告に無断で昭和六一年一一月ころ、本件建物敷地東南角に水洗便所の浄化槽埋設工事に着手し、他方福岡市水道局に対し、本件建物は双葉の所有であるとの虚偽の事実を申立てて水洗便所の許可申請をしたところ、同局において右事実が虚偽である旨が判明したため、同局から本件建物の所有者である原告に対し、双葉のなしたる右許可申請を取下げるようにとの勧告がなされるに至った。

徳次及び双葉の右各行為は、いずれも原告との信頼関係を破壊するものであり、特に双葉の右行為は本件建物について福岡市の上下水道使用許可が得られなくなる等の重大な不利益を生じさせるおそれのある行為である。

(四) 被告らの本件建物使用の必要性、本件建物の経済性

(1) 本件建物床面績は八三・五九平方メートルと原告の自宅の床面積の約二・六倍も広いが、本件建物には双葉が夫と二人で住んでいるのみであり、双葉を除く被告らは現在それぞれの肩書住所地に居住している。

(2) 徳次と原告との間の昭和四五年の本件建物賃貸借以来現在まで、徳次及び被告らは近隣建物賃料相場に比し、極めて低廉なる月額一万五〇〇〇円の対価をもって約一九年の長期の間、本件建物を使用収益して利益を享受しているのであり、被告らは本件賃借上の利益を十分に取得し終っている。

(3) 本件建物は、福岡市の中心部にあり、通称「けやき通り」のすぐ裏手の商店街の一角に存し、隣りにはマンションが建ち、付近にも高層マンション、ビルが林立し、本件建物の敷地の昭和六一年度の固定資産評価額は一〇〇三万四八二〇円となっているが、原告は本件賃貸借のため右土地の価値に見合う運用を阻害され、ほとんど収益を得ていない。

(五) 立退料の提供の用意

原告は本件建物賃貸借の解約申入れにつき、正当事由を補強するため昭和六三年七月一三日の第八回弁論期日に金一〇〇万円の立退料の提供を申し入れ、さらに、平成元年三月二二日の第一四回弁論期日に右立退料を五〇〇万円まで増額する用意のある旨申し入れた。

4  前項1の解約申し入れの六か月後である昭和六二年九月六日は経過した。

よって、原告は被告らに対し、契約解約による原状回復請求権に基づき立退料として金五〇〇万円の提供を受けるのと引換えに、本件建物の明渡しを求める。

二  請求原因に対する認否

(主位的請求原因に対する認否)

主位的請求原因事実は全て認める。

(予備的請求原因に対する認否)

1 予備的請求原因1及び2の事実は全て認める。

2 同3の事実のうち、

(一)の事実は否認する。

(二)(1)の事実は否認する。原告は本件建物及びその敷地を立場川幸代から同人の借財清算のために代物弁済として取得したものである。

(二)(2)の事実は不知。

(三)(1)の事実のうち賃料が月一万五〇〇〇円であることは認め、その余は否認する。

(三)(2)の事実のうち原告が調停を申立て不調に終ったことは認め、その余は否認する。

(三)(3)の事実は否認する。

(四)(1)の事実は認める。

(四)(2)の事実のうち賃料が月一万五〇〇〇円であることは認めその余は否認する。被告らは賃料値上げを要求されたことはなく、原告が二〇年近く放置していたに過ぎない。

(四)(3)の事実は争う。

三  抗弁

(主位的請求に対する抗弁-供託)

1  原告は徳次に対し、昭和四六年八月八日本件建物の賃貸借契約の更新を拒絶する旨通知した。

2  徳次は原告に対し、同年九月一日、本件建物の賃貸借契約に基づく同年九月分の賃料一万五〇〇〇円を提供した。

3  原告は右賃料の受領を拒絶した。

4  原告は徳次に対し、昭和四六年九月五日本件家屋を一、二か月のうちに明渡すよう通知した。

5  訴外江下徳次は昭和四六年九月分から同五六年九月分まで、被告らは同年一〇月分から現在に至るまで、本件建物の賃料を供託している。

(予備的請求に対する抗弁-正当事由の不存在)

原告の本件建物の賃貸借契約の解約申入れには以下に述べるとおり正当事由が認められない。

1  本件建物の現状

本件建物は、その本体部分にあたる梁や柱は堅牢であり、屋根の一部を補強するという軽微な修理をすれば十分居住でき、老朽化には程遠く、また、隣接する住家とはすでにブロック壁できちんと補強されていて周囲には何ら危険を及ぼすものではない。

2  原告の本件建物使用の必要性の欠如

原告は、本件家屋及び自宅の他にも、近所に数ケ所、土地・建物を所有する資産家であり、原告の主張するような自己使用の必要性は全くない。

3  信頼関係を破壊するような事実は被告ら側にはない。

(一) 原告は本件建物取得の約一年後の昭和四六年八月ころから本件建物の明渡しを求めて以来同年一〇月に調停を申立てたのみで、以降何ら徳次及び被告らと話合いの機会を持ったことがなく、昭和五〇年一二月、徳次に対し本件建物明渡し要求の通知をした以外本訴請求に至るまで放置し続けてきた。

(二) 無断増改築の不存在

原告は徳次及び被告らの本件建物維持の為に再々の修理依頼にも応じず、徳次及び被告らはやむなく自己の費用で修理を行ってきた。右修理の中には、本件建物の風呂場や便所も含まれている。このうち風呂場の修理は賃貸の当初よりあった風呂場の内壁を塗替え、病床の亡母が転倒しないよう床を平にしたにすぎない。また、双葉が便所を水洗にしようとしたのは、昭和五〇年に本件建物のある赤坂地区に福岡市の下水道が整備されたため、同市から被告らを名宛人として再々水洗化の勧告があり、当時便所の踏み板を原告が修理しなかったこともあり、家屋の維持のためやむなく行おうとしたものであるが、これを原告により中止させられた。

4  移転の困難性

双葉は、徳次の死後、ギフトショップを営んでいたが、昭和五六年末、手形詐欺にあったことから経営に行詰まり、昭和五七年九月七日、福岡地方裁判所にて破産宣告を受け(昭和五七年(フ)第六四号)た。その後、今日に至るまで、博多駅構内のみやげもの店で店員として真面目に勤務し、昭和六〇年に結婚したが、破産というゼロからの出発であるため、現在も経済的に苦しい状況である。

被告らは本件建物で成長し、本件建物は仏壇や三〇年来の亡徳次遺品などがあって、仏事・祝事を行うなど、被告らの実家として重要な役割を果たし、被告らの愛着は深い。そして、双葉は、夫とともにこれらの仏壇・遺品を守ることを兄弟・姉妹より任され、また、このことで破産後もこの家屋に居住することで他の被告らから生活の援助を得ている。

以上の事実に照らせば被告双葉が他所に移転することは極めて困難である。

四  抗弁に対する認否

(主位的請求に対する抗弁)

1 抗弁1ないし4の事実は全て否認する。

2 抗弁5の事実は認める。

(予備的請求に対する抗弁)

1 抗弁1及び2の事実は全て否認する。

2 抗弁3の事実のうち(一)の事実中原告が徳次に対し昭和四六年八月ころから本件建物の明渡しを求めた事実、同年一〇月に調停を申立てた事実及び昭和五〇年一二月、徳次に対し本件建物明渡し要求の通知をした事実は認め、その余は否認する。原告は双葉に対し、再三に渡り明渡しを求めてきた。

3 抗弁4の事実のうち双葉が破産宣告を受けた事実は明らかに争わず、その余は不知。

第三  証拠〈省略〉

理由

(主位的請求)

一  請求原因について

請求原因事実は全て当事者間に争いがない。

二  抗弁について

1  〈証拠〉によれば、原告は、昭和四六年八月八日に本件建物の賃貸借契約の更新を拒絶する旨徳次に通告し、被告双葉が同年九月一日に賃料を提供したところ、同月八日までの分として四〇〇〇円のみ受領し、同月五日には再度解約の通告をし、以後家賃は一切受け取らない旨を表明し、同月八日には徳次宅に一方的に敷金を置いて帰ったことが認められ、抗弁5(家賃の供託)の事実は当事者間に争いがない。

2  右の事実に照らせば、本件建物賃貸借契約について、原告は昭和四六年九月分の家賃の受領を拒絶し、賃貸借の存続を否定し今後の賃料を受領しないとの態度を明確にしていたのであるから、同年九月分以降現在に至るまで続けられている家賃の供託は有効である。

よって、抗弁には理由があり、被告らの賃料不払を前提とする主位的請求は失当である。

(予備的請求)

一  請求原因1及び2の事実は全て当事者間に争いがない。

二  原告の本件建物賃貸借契約の解約申入れに正当事由があるかにつき判断する。

1  本件建物の現況等

〈証拠〉を総合すると次の事実を認めることができる。

(一) 本件建物は、福岡市の中心部にあり、市内有数の商業地である通称「けやき通り」のすぐ裏手の商店やマンション等の立ち並ぶ地域に存し、その敷地は約六〇坪あり、昭和六一年度の敷地の固定資産評価額は一〇〇三万円余りであって、市内でもかなり地価の高い地域に属している。

(二) 本件建物はもと三軒の棟割長屋の東側の一棟であり建築後相当の年月を経過しており、徳次は昭和三五年に当時の所有者福島豊喜から本件建物を借り受け、昭和五六年に徳次が死亡した後は被告双葉が居住し、その後同被告の夫が同居している。

(三) 本件建物はかなり老朽化が進み、屋根には雨漏りを防ぐため、ビニールシートを被せ、重しを置いて補強してあり、下屋、物置は新しい軒桁で補修してあるが、物置の屋根は腐食している。

また、居間は場所により差異があるが、所によっては、壁の崩落、天井板の湾曲、隙間が生じ、雨漏りの跡が見られ、配電は碍子による古い配線のままであり、トイレ前の廊下の板は波を打ち、たわんでいる。

右のとおり、本件建物は、部分的には老朽化は著しいが、一方、建物の梁、柱等は腐蝕はなく、躯体は頑丈で、ある程度の補修をすればなお相当期間居住に耐えることができ、使用継続が危険であるとは認められない。

(四) なお、原告は、昭和四六年に更新拒絶をして以来、徳次あるいは被告双葉からの本件建物の補修の要求に応じようとせず、被告らによる改修等も厳しく制限していたので、右のような原告の態度により本件建物の老朽化が適正な補修をしていた場合よりも進んだことも否めない。

2  原告の本件建物を明渡しを求める必要性

〈証拠〉によれば、原告の自宅は本件建物から歩いて一分ほどの所にあるが本件建物に比べかなり手狭であり、長女と三女は近くのアパートに別居していることが認められる。

しかしながら、〈証拠〉によれば、原告は本件建物の一軒置いた西側に倉庫等に利用している土地、本件建物の斜め向かいに原告の経営する会社の建物の敷地をそれぞれ所有しており、本件建物の明渡しに固執していなければ、これまでの間に現在の自宅よりも広い自宅を確保することも可能であったとも推認される。

また、〈証拠〉によれば、原告の本件建物の取得の動機は自宅の入手にあったことが窺われるが、本件建物が借家であることを知って入手したものと認められるので、そうであれば容易には立退きを要求できないことも当然覚悟しておくべきであって、右動機を正当事由の判断に当たって過大に評価することはできない。

3  被告らの本件建物使用の必要性

被告双葉以外の被告らが本件建物に居住していないことは当事者間に争いがないが、〈証拠〉によれば、被告らは本件建物は両親が住んでいて被告らが成長した家であり実家としての愛着があること、被告双葉は経済的に苦しい状態にあり、他所に自宅を取得することは困難であることが認められる。

しかしながら、本件建物は借家であり、いずれ朽廃すれば賃貸借は終了し明け渡さなければならない関係にあるところ、既に賃貸借期間は二九年にも及び建物の老朽化も進んでいることも考慮されるべきであり、また、相当額の立退料の提供があれば被告双葉夫婦が他に建物を賃借することができないわけではない。

4  信頼関係の破壊

(一) 明渡しの予定について

請求原因3(三)(1)(2)の事実のうち原告が昭和四六年一〇月ころ本件建物明渡の調停を申立て、調停が不調に終わった事実については当事者間に争いがなく、前判示のとおり、原告が昭和四六年八月ころから本件建物の明渡しを求め、徳次がこれを拒絶し、この頃から本件建物明渡しの紛争が続いていることが認められるが、原告の本件建物取得当時から徳次との間で近いうちに明け渡すとの約束が存したと認めるに足りる証拠はない。

(二) 無断増改築について

〈証拠〉によれば次のとおり認められる。

(1) 風呂場の改修

風呂場は内壁が塗りかえられ、床面が高くなり、点火式のガス釜が取り付けられただけであり、現代の生活水準からみれば当然の改修であって、原告との信頼関係を損なうものとは認められない。

(2) 下水道管の設置工事

本件建物の便所は汲み取り式であるところ、本件建物付近には昭和五〇年頃に下水道が設けられ、付近の建物は次々と水洗便所に切り替わったが、原告は水洗便所にすることを拒否し、被告双葉が昭和五九年頃業者にその工事を依頼したところ、同被告には権利がないとして原告が右工事を中止させたことが認められる。

しかして、建物所有者は水洗便所への改造義務を負っているところ(下水道法一一条の三)、その義務を果たさずにいながら、賃借人が自己の費用で工事をしようとしたことをもって、信頼関係を破壊するものと主張することは当を得たものでないことは明らかであり、むしろ、本件建物の便所を賃借人の要望にもかかわらず汲み取りのままにしておくことは、賃借人に精神的な苦痛を与える所為として賃貸人としての義務に反しているものというべきである。

三  以上の事実を前提として本件建物賃貸借契約の解約の正当事由の有無を判断するに、原告側の事情と被告らの事情を衡量すれば、そのままでは明渡しの正当事由があるものとは認められないが、賃貸借期間が二九年に及び建物の老朽化も進んでいること、当初の賃借人は死亡し、被告らのうち本件建物に現在も居住しているのは双葉一人のみであり、適正な補償があれば移転が可能であること、本件建物周辺は土地利用の高度化の進んだ地域であり、本件建物の存在によって地価の高い敷地の有効利用が著しく妨げられていることなどに照らし、原告が十分な金銭による補填をすれば正当事由があると認めることができる。

しかしながら、右の立退料の算定に当たっては、従前の賃料は原告が賃貸借自体を否定して値上げをしなかった結果であるからこれを算定の基礎とするのは妥当でなく、正当事由がやや弱い本件にあっては、本件建物の明渡し(その後の取毀し)によって土地の最適利用が可能になるので、それによって得られる原告の客観的な経済的利益を主たる算定の基準とすべきである。そして、これに前述の賃借期間建物の状況等をも勘案することとし、前掲第一四号証その他公刊された地価資料等を参酌すると正当事由を補完するために借家人に分与すべき経済的利益(立退料)は金七〇〇万円が相当であると判断される。

しかるところ、弁論の全趣旨によれば原告は金五〇〇万円を上回る立退料を提供する意思を有しないので、右金額との引換給付判決をなすことはできず、結局、原告の請求は理由がないことに帰する。

(結論)

よって、原告の本件請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大島隆明)

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